神の眼を持つ写真家「セバスチャン・サルガド」歴史に名を残す写真家ストーリー
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はじめに
「神の眼を持つ報道写真家」と聞いて、みなさんはどんな人物を思い浮かべますか?
これは、世界的に有名な報道写真家、セバスチャン・サルガドの愛称です。
「神の眼」と言われると、誰もが思わず見惚れてしまうような写真を撮る写真家かな?と想像するかもしれません。
その表現は合っているようであり、違っているようにも思えます。
この記事では、報道写真家セバスチャン・サルガドが、どのような人生を歩んできたのかを、
カメラ教室を経営する僕が、サルガドという人物を知らない方にもわかりやすく解説するものです。
サルガドを紹介する人
フォトアドバイス代表 佐藤孝太郎
兵庫県出身、1978年生まれ。大阪大学大学院工学研究科電子工学専攻修士課程。12年間のカメラメーカー勤務を経て、フォトアドバイス設立。「学ぶ-撮る-つながる」をテーマにオンラインで学べる写真教室「PHOTODAYS」を運営。神奈川県横浜市在住。4人の男の子を育てる父親。趣味は旅行と読書。
なぜ、僕が歴史に名を残す写真家を解説するシリーズを書こうと思ったかというと、
有名な写真家はその作品だけじゃなく「生き方」すらアートである。
先行きの見えない社会において、写真家の「生き方」から生きるヒントを得て
オリジナリティあふれる写真ライフを過ごすきっかけになればいい。
と思っているからです。
サルガドは、単に美しい景色や人の写真を撮るだけの写真家ではありません。
飢餓や病気に苦しむ難民、欲望と苦悩にまみれる労働者など、写真を見た人がぎょっとして賛否が分かれるような写真を撮る人物でもあります。
ひとつは29歳で安定したキャリアを捨てて写真家として歩みだした時。
そしてもうひとつは、人間に絶望しすべての気力を失った状況から復活した時です。
この記事を読んでくれた方が、サルガドの人生からなにかを感じ取り、ご自身の写真ライフに良い変化があれば嬉しく思います。
サルガドの生い立ちとカメラとの出会い
サルガドは1944年ブラジルの農園を経営する一家に生まれました。
サルガドには7人の姉妹がいて、地域の住民と自給自足のような生活をしていました。
サルガド一家の農園はとても広大で、街へ牛を売りにいくために45日もかかったそうです。
山に囲まれ豊かな自然の中でで育ったサルガドは、遠くにそびえ立つ山を見つめて、
「あの山の向こうには何があるんだろう。」
と好奇心に満ち溢れたで日々を過ごしていました。
15歳になり、サルガドは農園を出ます。
ヴィトーリア高校という都市の学校へ進学することになったのです。
初めて列車に乗って都市へ出たサルガド。
自給自足の生活が長かったので、現金の使い方さえも知りませんでした。
最初のうちは食事の注文方法がわからずに空腹で過ごしたそうです。
サルガドはフランス文化普及協会の事務局で働きながら高校を卒業。
そこで、後に妻となるレリアに出会います。
サルガドはレリアに一目惚れ。2人は付き合うようになります。
その後、サルガドはサンパウロ大学の経済学部へ進学。
23歳でサンパウロ大学経済学の修士課程の奨学金が決まったタイミングでレリアと結婚しました。
その頃のブラジルは軍事独裁政権。2人は軍事政権に反対する学生運動に傾倒していました。
これは当局から逮捕、国外追放、拷問などの恐れがある活動です。
レリアの両親が亡くなったことがきっかけで、2人はフランスへ亡命します。サルガドが25歳の時でした。
サルガドはパリで博士課程に進学、レリアは建築学を学びます。
2人は愛車のシトロエン2CVを乗り回し、パリ各地で政治活動を行うようになりました。
様々な活動家と会って、労働や難民の問題を話し合っていたようです。
そんなある日、レリアと共に訪れたスイスのジュネーブで
サルガドの運命を決定づける出来事がありました。
レリアがカメラ(PENTAX SPⅡとF1.5の単焦点レンズ)を買ったのです。
2人とも写真の知識はまったくありませんでしたが、このことがきっかけでサルガドは写真にのめりむようになります。
そのハマり具合は、シトロエンから乗り換えたフォルクスワーゲンの車内に、写真を現像できるラボを作ってしまったほど。
サルガドは当時のことを「自分が写真の仕事に向いているような気がしてきた」と振り返っています。
エコノミストから報道写真家への転身
それからサルガドは、ロンドンに移住して国際コーヒー機構(ICO)に勤務します。
エコノミストとしてアフリカに何度も訪れて、農業経営の指導に従事します。
この時の経験が若いサルガドにとって強烈な体験だったようで、
のちに「アフリカは第三の故郷」といえる存在になります。
サルガドはアフリカにレリアのカメラを持って行って、仕事の合間に大量の写真を撮っていました。
エコノミストとして国際機関で勤務し、エリート街道を走る順風満帆な生活でした。
しかし、30歳前半の時に大きな決断をします。
国際コーヒー機関の仕事を辞めて、報道写真家として独立したのです。
サルガドは、エコノミスト・コンサルタントとしての仕事ではなく、
報道写真家として写真を撮る方が、真実に近いものを表現できると考えたのかもしれません。
アフリカで目にした難民の存在。
それはこれまでエコノミストとして机上のデータを通してしか、世界を見ることができなかったサルガドを突き動かしたのです。
サルガドは、正式に報道写真家として独自のプロジェクトを発足させ、スポンサーからの支援を募って活動し始めることとなります。
妻レリアはイギリスの建築事務所で働き、子育てをしながら家計を支え、サルガドの写真を売り込むために雑誌や新聞エージェントを回りました。
この頃サルガドは、ニジェールで食料を求める母親を撮ったり、
トゥアレグ族の盲目の女性が目に涙を浮かべている姿を撮影しています。
ニジェールで撮影した写真は、のちにフランスの有力NGOのポスターに採用され、サルガドはその収入でライカを買ったそうです。
サルガドの写真はすべてモノクロで表現されています。
トゥアレグ族の盲目の女性を撮った写真は、
モノクロ写真の効果も相まって涙が際立って見えるので、
帰る場所を失った苦しみがとても伝わるように思えます。
ちなみにサルガドがアフリカの旅を始める前、彼が30歳の時に長男ジュリアーノが誕生しています。
ジュリアーノが父サルガドに会えるのは、旅から帰ってくる少しの間だけだったので、
ジュリアーノにとってサルガドはヒーローのような存在だったそうです。
ジュリアーノはのちに父サルガドの自伝映画にディレクターとして参加しています。
ラテンアメリカの旅と写真集「OTHER AMERICAS」
1977年、サルガドが33歳の時。
サルガドはラテンアメリカの奥地の部族と生活を共にしながら写真を撮るプロジェクト
「OTHER AMERICAS(アザーアメリカ)」を発足させます。
その旅は、サルガドにとって重要な旅となりました。
先住民サラグロ族のグアダルーペと仲良くなった時のエピソード。
当時のサルガドは金髪に赤髭という風貌をしており、その姿を見たグアダルーペから、「君は天からの使者だろ。」と言われます。
なぜかというと、サラグロ族の伝説に、金髪に赤髭の姿をした者は、神からの使いであるという伝承があったからです。
サルガドは紙からの使いで、天国に戻ったら神にすべて報告すると信じていたグアダルーペは、サルガドに自分の人生の全てを話しました。
サラグロ族は神を信じ、天命を信じていたのです。
他にもサルガドは、音楽を愛する民族のもとを訪れました。
そこでは誰もが楽器を奏でることができ、働く必要はなく音楽が仕事です。
サルガドにあてがわれた寝床は、セメント材の硬い床でした。
なぜなら、その村の人々はサルガドの本気度合いを試そうとしたのです。
サルガドは数日間固い床で過ごし、そこで熱意が認められて、ようやく彼らの家に入れてもらえたといいます。
そうした経験を通して、人々の中に溶け込むことができ、真の親友になれて楽しかったとサルガドは語っています。
「写真を撮ると被写体を少し理解できる。」
「ポートレートは相手からもらうものだ。」
セバスチャン・サルガド「地球へのラブレター」より
これは、サルガドがラテンアメリカの旅を通して語った言葉です。
サルガドは約8年かけて広大な山脈で部族と共に幸せな時間を過ごし、
その旅の様子をまとめた写真集「OTHER AMERICA」は、ユージン・スミス賞を受賞しました。
その写真集はサルガドが人をどう見つめていたか?をありありと語る、彼の原点と言える作品だと思います。
写真のもつ偉大な力を感じられるので、ぜひ機会があれば見てもらいたいです。
OTHER AMERICA
死と隣り合わせで暮らす人々に尊厳を見出した写真集「SAHEL」
1984年、サルガドは国境なき医師団と一緒にエチオピア難民キャンプを訪れ、2年間を過ごしました。
難民キャンプを取材した理由は、大勢の人が飢餓に苦しむ状況を取材して人に伝えたかったからです。
しかし、難民キャンプの状況はサルガドの想像を超えていました。
衛生環境の悪い難民キャンプでは疫病のコレラが蔓延していました。
身体が弱った状態でコレラにかかるとひとたまりもありません。
下痢と嘔吐で1日に約12リットルの水分が失われ、2、3日で骨と皮だけになって死んでしまいます。
特に寒暖差の激しい乾燥地帯では夜の寒さに耐えきれなくなって大量の人が亡くなりました。
衰弱して今にも死にそうな子供を抱きながら、誰かに助けを求める気力もなくその場にたたずむ母親。
亡くなった息子を埋葬するために、貴重な水で遺体を洗いながら別れを告げる父親の姿。
もはや、死は生活の一部だったのです。
政府とゲリラの抗争を避けるため、エチオピアからスーダンに逃れる難民と一緒に行動していたサルガド。
そこに突然2機の攻撃ヘリが現れて、難民を機関銃で攻撃しはじめました。逃げ惑う難民に混ざって、サルガドは写真を撮りながら必死に逃げたそうです。
災難を逃れてなんとかスーダンにたどり着いたにもかかわらず、水不足のためにさらに300km離れた場所へ輸送される難民たち。
ナイル川の近くで水を確保しても、今度は食糧不足で次々と人が死んでいく。
サルガドはそのような悲惨な光景を撮り続けました。
力尽きた子供を手に抱え、立ちすくむ男性の写真。
長い長い避難末に耐えきれず死んでしまった子供たちの写真。
水と食べ物が無い苦しみが限界に達し、暴力的で残酷な風景だけが残り、ついには力尽きた。とサルガドは語っています。
1985年、大干ばつに見舞われたマリ。。この土地には不思議と痩せた女性と子供しかいません。男はリビアへ出稼ぎかコートジボワールへ行ったきり帰ってこないのです。
サルガドは杖をつきながら遠くの方を見てたたずむ少年の写真を撮っています。
とても印象的なこの写真。少年はなにを思い、どのような未来を見ようとしていたのでしょうか?
サルガドはサヘルの人々に愛着を感じ、8年間何度も訪れました。
ここまでの話を聞くととにかく悲惨でかわいそうな印象があると思いますが、
不思議なことに写真を観るとそれだけではない感情が湧いてきます。
例えば、素っ裸でガリガリに痩せた少年が砂漠に立っている写真、
骨と皮だけになって死を待つだけの様子、亡くなった我が子を手に持つ父親。
サルガドは悲惨な人々を撮りつつ、愛情というまなざしで「人の尊厳を撮っている」ように思えます。
「人とは何か?」「生きるとは何か?」を考えさせられる写真だと思います。
サルガドから労働者へのオマージュ 写真集「WORKERS」
1986年から、サルガドは被写体を難民から労働者へ移します。
妻レリアと一緒に企画し、「WORKERS」と名付けられたプロジェクトは、現代の世界を作った全ての労働者に捧げるオマージュです。
ソビエト連邦の鉄鋼労働差や、バングラデシュの船の解体会社、コルカタの部品工場、ルワンダの茶摘みなど。サルガドはエコノミストの時とは違った視点で肉体労働をテーマとして扱いました。
WORKERS
このころ撮影した写真で印象的なのは、ブラジルの鉱山の写真です。
一攫千金を求めて5万人近い労働者がブラジルの金鉱山に集まり、まるで人々がアリの集団のようにうごめいている光景を収めた写真があります。
「みんな狂気のなかにいた。」
セバスチャン・サルガド「地球へのラブレター」より
そこに写る人々は、知識人、大学の学位取得者、都会の労働者など業種もさまざま。
金鉱脈を掘り当てれば大金が手に入るため、自分が運んだ土に金が含まれるのかどうか?それだけを考えながら露天掘りの鉱山で働いていました。
金を手に入れた者は2度と帰ってこなくなり、
その金持ちになる欲望が垣間見える姿は、奴隷のようで奴隷では無い、労働者たちの姿でした。
セバスチャン・サルガド「地球へのラブレター」より
Gold
1991年、湾岸戦争のさなか、サダムフセインはクェートの油田に放火しました。
クェートで燃え盛る500本もの油田。ベネズエラにいたサルガドは油田火災のニュースをテレビで見て急ぎ現地に駆け付けました。
原油の真っ黒な煙が空を覆い、昼なのに闇に包まれる異様な光景。
すさまじい勢いで炎を噴き上げる油田火災に立ち向かう、カナダのカルガリー消防団を取材しました。
命の危険を顧みず、油田に近づいて消火活動を行う毎日。
原油にまみれて黒くなった消防車を洗車しても、また翌日には原油まみれになる。肉体の極限を試される過酷な労働環境。
あまりにも壮大な光景を撮ることに魅せられたサルガドは、帰国を2、3度遅らせて、ギリギリまで粘って取材を続けました。
ここで撮った写真は、エコノミストの顔とアーティストの顔が融合した写真と評価されて、世界中で展示されました。
KUWAIT
魂を病み、報道写真家としての活動を終える 写真集「EXODUS」
サルガドと妻レリアは休むことなく壮大なテーマ「人口の移動」に挑戦します。
1993年からプロジェクト「EXODUS(エクソダス)」で、難民の運命を世界に知らせる活動をはじめます。
このプロジェクトで何度もアフリカを訪れたサルガドは、ついに魂を病むほど追い詰められます。
きっかけになったのは、1995年のルワンダ大虐殺です。
当時のルワンダでは、少数派のツチ族と多数派のフツ族の間で内戦が勃発していました。
植民地時代からの政策で優遇されていたツチ族に対し、不満を募らせていたフツ族がクーデターを起こして政権を握ったのです。
政権を追われたツチ族の支配者階級はウガンダに逃れ、ルワンダ愛国戦線という組織を作りました。
ルワンダ愛国戦線を結成したツチ族は、祖国を取り返そうとルワンダに侵攻してして内戦が始まったのです。
緊迫した状況の中、フツ族の大統領が乗った飛行機がミサイルで追撃される事件をきっかけに、多数派のフツ族によるツチ族への大虐殺がはじまってしまいました。
地域の民兵や警察が銃火器を使って計画的にツチ族を殺害。フツ族の穏健派まで裏切り者として殺され、一般のフツ族の住民もツチ族を殺さないと自分まで殺されると脅される。
犠牲者の大半は自分の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住民でした。
結果として、内戦が終結するまでの100日間で80万人以上が殺されることになります。
サルガドはルワンダの国境から首都のキガリに向かう途中、およそ150kmにわたって大量の死体が転がっているという、おぞましい光景を目にしました。
また、サルガドはルワンダから逃れた難民の取材のため、隣国のコンゴを訪れます。
美しいサバンナの中に巨大な集落ができていた。
天国に地獄が居座ったおぞましい光景だった。
セバスチャン・サルガド「地球へのラブレター」より
この難民キャンプでも病気が蔓延し、次々と人が死んでいきました。
あまりにも多くの人が亡くなったため、フランス軍の重機が遺体を一カ所にかき集め、土をかぶせます。
そこに親が子供の遺体を捨て、何事もなかったかのように去っていきます。
もう限界だ。生きる価値を見いだせない。闇の核心を見た。
セバスチャン・サルガド「地球へのラブレター」より
精神的にも肉体的にもボロボロになったと感じたサルガドは、友人の医者に診てもらいました。
診断の結果、体はどこもおかしくなかったのですが、医者はこう言いました。
「セバスチャン、君の体はぼろぼろだ。あまりに死を見すぎた。
このままでは君の体が腐っていく」
セバスチャン・サルガド「地球へのラブレター」より
自分の身体の限界を確信したサルガドは、ルワンダを最後に取材の旅を終えたのです。
EXODUS
故郷の森とともにサルガドは再生する 写真集「GENESIS」
魂を病み、カメラを置いたサルガドは50歳になっていました。
この頃、サルガドの父親の体調が悪化したため、看病のためにブラジルへ帰国します。
久しぶりに訪れた故郷の農園は、子供時代の記憶とは全く異なっていました。
干ばつや気候変動の影響で600haの広大な森は消え失せ、荒れ地になっていたのです。
サルガドの父もまるでお手上げといった様子でした。
こんな乾燥した大地はもう再生しないだろう、と思った矢先、レリアが口にしたのは「森を作り直そう」という一言でした。
セバスチャン・サルガド「地球へのラブレター」より
サルガドとレリアは力を合わせ、痩せ細った大地に手作業で木を植え続けました。とはいえ、成功する見込みはありません。
マタ・アトランティカという大西洋岸の原生種の再生にこだわったのですが、マタ・アトランティカの植林は前代未聞でした。
森林工学に詳しい知人の助けを借りても、最初の年は植えた木の6割がダメになり、翌年は4割が失敗。
それでも諦めずに植林を続けた結果、200万本以上の木が育ちサルガドの農園に森が再生します。
この農園は私有地から国立公園になり、土地改良のモデルになっています。
この大自然の再生プロジェクトがサルガドの病んだ心を癒しました。
サルガドは「もう一度、写真を撮りたい!」と、再びカメラを手にします。
復活したサルガドが被写体として選んだのは悲劇の人々ではありませんでした。
地球へのオマージュとして、自然、動物、風景など我々の起源(ジェネシス)を撮るプロジェクトです。
ガラパゴス島でダーウィンとも出会っていたかもしれない長寿の大亀を撮ったり。
人間を恐れていないアシカ、イグアナ、山、砂漠、海、現代社会から離れて暮らす人々など、原始的な自然と生活を撮りながら再考をはじめました。
そうしてまとめた写真集「GENESIS」に収められているのは、これまでの悲惨な状況に置かれた人々ではなく、美しい地球の景色でした。
GENESIS
僕の経験上、「しんどくなったら休んだほうがいい。」と思います。
たまには自然に囲まれた環境で足元をじっくり見たりなんかして。
人間ってそんなに強くないです。
サルガドほどの超人でも魂を病むことがあるんだから。
僕たちみたいな凡人はしんどかったらとりあえず休息して、
元気を取り戻したらまた歩き出せばいいんじゃないですかね。
最後に〜「THE SALT OF THE EARTH」〜
地の塩(THE SALT OF THE EARTH)という言葉があります。
「地の塩」とは、キリスト教の教えで、神を信じるものは腐敗を防ぐ塩のように社会や人の模範や手本であれ、という意味です。
コトバンクより
「THE SALT OF THE EARTH」は、サルガドのドキュメンタリー映画の外国版のタイトルにもなっています。
人間が起こした紛争で追いやれた人々や殺された人々、そして壊された森を見て、サルガドは人間は地球にとっての手本であってほしいと願ったのかもしれません。
サルガドの写真を観て感じることは、
悲惨な状況にある人々を撮った写真って、苦しさとか悲しさが伝わるのが一般的なのに
サルガドの写真からはアートのようなものが浮かび上がることです。
そこに苦しさがあるのかないのか、あるいは単にアートとして撮っているのかわからなくなるくらいです。
そのようにサルガドが写真を通して表現してきた、
地球規模の苦しみや恐怖の美化については賛否両論ありますが、
人々は美に共感し、それを通して人間の神々しさや尊厳を感じ取るのではないでしょうか。
サルガドは報道写真家として、人生をかけて人間と自然を撮ってきました。
幼少期は広大な農園で自給自足で育ったサルガドの眼差しは、いつも命を愛する慈愛で満たされていたのではないでしょうか。
だからこそ神の眼を持つと言われるほどの写真が撮れるのだと思います。
きっと他の人が同じ景色を撮ったとしてもサルガドと同じようには撮れないでしょう。
サルガドの歴史的背景を知って、興味を持った方はぜひサルガドの写真集を手にとって眺めて欲しいです。
サルガドのことをもっと知りたくなったら
standfmで佐藤孝太郎が音声解説
本記事で掲載した内容は、僕のプライベート「きぬきぬ」のニックネームでStandfmで音声配信しています。サルガドの人生について2時間近く詳細に解説しているので、ぜひ聞いてみてください。
サルガドの写真と人生を映像で観る
サルガド本人の語り口で幼少期からGENESISまでの活動を振り返るドキュメンタリー映画。サルガドの代表的な作品がたくさん紹介されるので、サルガドに興味が湧いたらまず観てほしい映画です。
映画「地球へのラブレター」ブルーレイ
Amazon Prime Videoなどネット配信でも視聴できます。 ⇒ Prime Videoで「地球へのラブレター」を観る
サルガドはTEDに出演して故郷の森林を再生したプロジェクトについても語っています。16分程度の短い講演ながらサルガドの思想がよくわかる映像なので、サルガドがどんな人か簡単に知りたい方におすすめです。
■TED「写真が見せるサイレント・ドラマ」
⇒ TEDで視聴する
サルガドの人生を書籍で読む
サルガド自身が人生を振り返って語ったものをライターがまとめた書籍です。サルガドの人生観、哲学、当時に思ったことなど書籍ならではの表現でわかりやすく解説されています。
■書籍「私の土地から大地へ」
サルガドの写真集を楽しむ
SAHEL
GENESIS
OTHER AMERICA
EXODUS
Children
Gold
THE SALT OF THE EARTH
Africa
Scent of a Dream
WORKERS